回顧録

今日の雲

 
人生には、「転機」とよばれる時があるようです。
が、ちょうどほんとにその渦中に居る時は、
その事実に気づかないもんなのやもしれませぬ。
 

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去年の今頃の自分を、まるでひとごとのように思い出す。
 
あの頃、自分はいつもカラッカラだった。
まるで干上がりかけていた井戸のようだ。
井戸は水で満たすものだというのに、
真綿を、一生懸命井戸に放り込んで満たそうとしていた。
真綿を、放り込めば放り込むほど残りの微々たる水を吸い込み
井戸の見た目はまんぱんだけど、中身にあるべき水が無い。
お腹いっぱいだけど身が無い、そんな状況。
 
自分の井戸が干上がりかけていたことも知っていて、
自分が手に取って、井戸に放り込んでいたものが
真綿だということも頭では判っていたはずだ。
真綿で井戸が潤う訳が無いことも判っていたはず。
けれでもそれをココロが認めようとしなかった。
 
真綿で満たすことが「幸せ」なんだ、と思い込んでいた。
真綿で満たさないと「幸せ」になれないんだ、と信じきっていた。
真綿では満たされない自分を知ったとき、「不幸せ」だと絶望した。

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この半年、いま思えば、その全ての価値観を覆すための6ヶ月。
劇的な変化の瞬間は無くとも、人生を1年単位で区切って自叙伝を書いたなら
間違いなく、今年は自分にとって「転機」と評するものであろう。
 
相変わらず私は、ココロのどこかで真綿を探しているし
真綿への憧れも捨てきれない。でも確実にどこかで理解しているから
私は過去の真綿をもう一度拾いに行こうとは決してしていない。
毎晩夢に出てきても、こうして日記を書きながら思い出しても、
私は知っているのだ。
 
私の器は井戸。
井戸を潤すのは真綿じゃない。