『極北』

『極北』を読み終えました。白くて分厚い本。
プリミティブな処へ、我々の意識を連れて行ってくれる一冊。
原始的な世界には説明が少ないから、読む側の想像能力を鍛えてくれる。
しかし自信を持った頃に、想像した内容が(いとも簡単に)裏切られる。
起こり得ること全てに、想像を張り巡らせることができなくて地団駄を踏む。
ましてや読み手側は、目で辿ってきた頁分の情報量しか与えられていないのだから。
 
自分の人生に於いて、その状況を受け容れるのはかなり精神的に堪えるけれど
主人公を通して、少し冷静に、自らのそれと向き合うことが出来るようになると思う。
装丁と同じように、白くて透明に広がるイメージのまま語り進められるストーリーは
読後に思い返せば、うすーく何かの味がついていたような気がする。
その味はきっと、読み手それぞれで違うものを感じるだろう。
こうして余韻も楽しませてくれるあたり、とても読み応えのある一冊だったと言える。
 
 
さておき、本書は著者よりも訳者の村上春樹名で手に取る人も多いのでは。
かくいう自分がそれでした。しかし天邪鬼な自分は、皆が集まるものにいかないという
ややこしい習性のため、これまで意味も無く"村上春樹本”を避けて通って来てしまった。
したらば、私の読書生活のきっかけとなった翻訳家 鴻巣友季子さんの書評ブログでこの本が紹介され、
興味のある本に関するアンテナを張れば張るほど、村上春樹フラグがどんどん目に付くように。
というわけで、今回は観念して手に取った次第。
 
しかし、多くの人に好まれるには理由がある。何とも読みやすい。
他の翻訳本も読み漁りたい衝動に駆られてしまった。そして、
本書の分厚さに不安を覚えた自分は、“種明かし”ともいえる「訳者あとがき」から
読み始めてしまったところ、「訳者」から完全に見透かされていて慄いた。
本に向かって、漫画のような「おののくポーズ」をとったのは初めて。
 
いろんな意味で、悔しい思い出になった一冊でした。
 

極北

極北

 
悔しいけれど、記憶に残った翻訳フレーズをメモ。

自分が何かの終末に居合わせることになるなどと、人は考えもしない。(「何かの終末に居合わせる」にルビ。P.100 第一部 10)

なんだってかまやしない。(P.172 第二部 2)