『英米小説の読み方・楽しみ方』

アメリカのドラマのストーリーのなかにチョイチョイ登場する、
メルヴィル著『白鯨』という古典文学が、いい加減 気になりすぎるので、
そろそろ実際 手にとることにしました。
 
またしても(なんで学生時分に読んでおかなかったんだか)と
後悔しきりですが、先に立たず。しかし知識が無さすぎるので
解説してくれる本を探していて、こちらに辿り着きました。
 
先に述べたとおり、目的は『白鯨』について
知ることでしたが、他の章もかなり興味深く、
読書ビギナーの自分がこの一冊を読み終わる頃には、
メモやらブックマークがいっぱいになってしまった。
 
申し遅れたけれども、こちらは、東大教養学部(通称「駒場」)での
英米文学に関する講義をもとに書き下ろされた本。
各作品の時代背景や、読み解き方、似た背景を持つ本との比較や
後の世代に影響を与えた作家・作品など、タイトルどおり
英米小説の読み方・楽しみ方” を解説してくれています。
 
個人的には、エドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー」の章、
『白鯨』章、それと『風と共に去りぬ』と『アブサロム、アブサロム!』の章が
我が脳に刷り込まれました。
 
ちなみにハプニング的に、カズオ・イシグロの "The Remains of the Day"
について解説の章があり、ちょうどこの本を手に取る直前に
(この話をどう読んだらいいのかしら)と途方に暮れて放置していたので、
おかげさまで再度読む気が戻った次第です。
 

英米小説の読み方・楽しみ方

英米小説の読み方・楽しみ方

『ライ麦畑』プロジェクト

勝手にひとりで、『ライ麦畑でつかまえて』の2種類の翻訳を読んで、いろいろ考えてみようプロジェクトをこっそりやっていたのだけど、これがまあ苦しかった。

失礼な話だが、わたしはこの物語にまったく共感できずにいる。読んでいるだけでイライラしてしまうので、幸い、私はこの本にのめりこんで、有名人を襲撃するようなことは無いと思われる。

さておき、結果としては『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を読みたくて、翻訳本を読み直したわけですが、わからない、、シンプルな思考回路しか持合せない自分には、何度、誰が訳したものを読んだって、イライラするのは同じでした。少しは弾力性のある理解能力を養ったつもりでいたので、無念です実際。

サリンジャー戦記』の中で、妹のフィービーが、兄のホールデンのことを呼ぶ際の YOU を「あなた」と訳した理由について書かれていた。『キャッチャー』を読んだ時に、確かにその箇所が気になったことを思い出した。読み手の自分が、登場人物達に対する理解が浅いせいなのかな。古典作品だから、読み込んでるひとには、もしかしたら受け入れられることなのかもしれない。

それとタイトルの話。あえてカタカナでそのまま表記にした理由。これも古典だからなせる技なのか。カタカナの映画タイトルと同じように、邦題にして意味を固めず、ブラックボックスとして読み手に丸投げしちゃうという。文学でもそれがアリな時もあるんだな、と知る。

ともあれ、やっとプロジェクトから解放されたー。もう『キャッチャー』読みたくない。
 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 
のに、なぜ私の本棚には下記の2冊もあるのかしら。。昔はサリンジャーを理解できていたのだろうか(記憶に無い。。)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

『極北』

『極北』を読み終えました。白くて分厚い本。
プリミティブな処へ、我々の意識を連れて行ってくれる一冊。
原始的な世界には説明が少ないから、読む側の想像能力を鍛えてくれる。
しかし自信を持った頃に、想像した内容が(いとも簡単に)裏切られる。
起こり得ること全てに、想像を張り巡らせることができなくて地団駄を踏む。
ましてや読み手側は、目で辿ってきた頁分の情報量しか与えられていないのだから。
 
自分の人生に於いて、その状況を受け容れるのはかなり精神的に堪えるけれど
主人公を通して、少し冷静に、自らのそれと向き合うことが出来るようになると思う。
装丁と同じように、白くて透明に広がるイメージのまま語り進められるストーリーは
読後に思い返せば、うすーく何かの味がついていたような気がする。
その味はきっと、読み手それぞれで違うものを感じるだろう。
こうして余韻も楽しませてくれるあたり、とても読み応えのある一冊だったと言える。
 
 
さておき、本書は著者よりも訳者の村上春樹名で手に取る人も多いのでは。
かくいう自分がそれでした。しかし天邪鬼な自分は、皆が集まるものにいかないという
ややこしい習性のため、これまで意味も無く"村上春樹本”を避けて通って来てしまった。
したらば、私の読書生活のきっかけとなった翻訳家 鴻巣友季子さんの書評ブログでこの本が紹介され、
興味のある本に関するアンテナを張れば張るほど、村上春樹フラグがどんどん目に付くように。
というわけで、今回は観念して手に取った次第。
 
しかし、多くの人に好まれるには理由がある。何とも読みやすい。
他の翻訳本も読み漁りたい衝動に駆られてしまった。そして、
本書の分厚さに不安を覚えた自分は、“種明かし”ともいえる「訳者あとがき」から
読み始めてしまったところ、「訳者」から完全に見透かされていて慄いた。
本に向かって、漫画のような「おののくポーズ」をとったのは初めて。
 
いろんな意味で、悔しい思い出になった一冊でした。
 

極北

極北

 
悔しいけれど、記憶に残った翻訳フレーズをメモ。

自分が何かの終末に居合わせることになるなどと、人は考えもしない。(「何かの終末に居合わせる」にルビ。P.100 第一部 10)

なんだってかまやしない。(P.172 第二部 2)

 

床屋さん

今日は、父が床屋に行きたい、意地でも行くぞと言い張った。
家をスタスタ歩き出てゆくさまを見るのは、実に半年ぶりだった。
しかしやっぱり角をまがったところで力尽き、ペースを落としながら
次の角までやっと到達し、大人しく車椅子に乗った。
 
駅の向こうには、カットだけで660円の格安の床屋ができたのだが
いつだか父は「行ってみたけど、あれはいかん」と語っていた。
今日も、格安床屋の向かいにある、入り口には青い静脈と赤い動脈の線が
クルクル回っている昔ながらの床屋じゃないとだめだという。
 
連れて行ったら、どうやら父はそこの常連だったようで
やあやあ、なんて言いながら、勝手知ったる動きで、赤い散髪椅子に腰掛けた。
気が張っていると、案外体を動かすことができるらしい。
 
店の中の待ち合い椅子に腰掛けて、中をきょろきょろ見ていた。
男の社交場なので居心地がよくないが、何故か少しだけうきうきした。
赤い散髪椅子が4脚、それぞれの前には前屈みで頭を洗うための
流し台が設置されていた。しかもそれは折り畳み式で、
洗髪が始まるまでは、パタンと上に閉じてある。さらに、
バリカンやドライヤーを使うときの電源は、お客さんが座っている
赤い洗髪椅子の背にコンセント差込口があった。非常にモダンだ。
昭和の頃はきっと最新式だったのだろうなと想像した。
 
床屋さんの動作を見てみた。まず、父の髪を霧吹きで濡らし、
バリカンで大まかに刈り、鋏で整え、シャンプーを頭上にて泡立て、
洗髪台で洗い流した。それから、泡をしゃかしゃかして、カミソリを取り出し、
首元、もみ上げ、おでこ、ひげ、と丁寧に剃っていった。
こんなに病人扱いされずに、頭をガシガシ触られたのは久しぶりだろう。
 
そのベテラン床屋さんと父の会話を聞いていて、初めて知ったことがある。
実のところ、お医者さんに何と言われようともやめなかった煙草を、
父は、手術後のあるときからスパッと止めていた。
家族の誰も理由を聞かされていなかったのだが
止めようと思ったのは、そのベテラン床屋さんの
「煙草はいけないよ、あれはいけない」という言葉からだったという。
 
半年ぶりに散髪に来た姿があまりにも変わっていたせいなのか、
床屋さんは、あまり常連時代の父を思い出せずにいるようだった。
けれども、帰り道、お店の前で車椅子に乗せられて帰る姿を見る目は
普通のお客さんを見送る以外の、何か違う気持ちがこもっているように見えた。
 
帰り道、「床屋のおじさん、透析やってるって言ってたね」と私が言うと
「半年前に来たときは、まだやってなかったはずだなぁ」と少し俯いた。
 
帰宅して、いつもよりも大人しく眠りに落ちた姿を見ながら
父は、ただ髪を切りたかっただけじゃなかったんだな、と考えた。
 

字幕仕掛人一代記 ー神島きみ自伝ー

自分が学生だった頃は、まだまだ映画はフィルムでありビデオであった時代。
細かい作業が好きだった自分は、映画の字幕の文字を書く職業に、
少なからず憧れを抱いたものでした。
 
そうこうしているうちに、テープがCDになり、ビデオがDVDになって
しまいには Bluray とか出てきたわけで。
自分の人生のうち、10年くらい映画産業から興味が離れている間のこと。
その期間に、映画の字幕もデジタル入力になり、憧れた映画字幕制作会社は廃業していた。
 
ということも20年ぶりに映画について勉強し始めてから知ったことで
この本を紹介してくれたのも学校の先生でしたが。
 
読ませてもらって、あらためて思ったことは、
何でも、誠実に、一生懸命にやれば、結果は後からついてくるということ。
 
戦時中・戦後の、考えてる暇があったら働け、という時代に
どうしても憧れを持ってしまうのだけれど、いまだから出来ることもあるはず。
それを見つけようと、もうちょっともがいてみる所存。
 
何事も、人と人とのつながりで出来ている。
 

字幕仕掛人一代記―神島きみ自伝

字幕仕掛人一代記―神島きみ自伝

 
ちなみに先生から借りた本、途中のページが著しくクシャクシャなんですが
犯人は私じゃないですよ。けれど小心者だから今からやかんの蒸気で伸ばします。。

ゴーストライター

実は、ポランスキー監督の映画版を観たかったのだけど
まだツ◯ヤで準新作だったので、旧作になるのを待つという
せこい時間を使って原作の翻訳本を読んでみました。
 
反則技ですが、先に imdb で配役を確認しておいて
脳内で映画化するという、いわばオレ監督にて完読。
オレ的には、華奢なユアン・マクレガーの相手に
キム・キャトラルはゴツいしオリビア・ウィリアムズもちょっと分厚い。
そこがどうやって融合するのだろう。それとも私のユアン像が
すでに90's過ぎるのだろうか。早く本物の映画観たい。
 
さておき読んだ本ですが、イギリス人作家らしく
フンッと思わず鼻で笑ってしまうような箇所がいくつか。
最後の終わり方も、なかなかニクい。「そうか、そうきたか」と。
ストーリーが面白かっただけに、気になってしまった翻訳具合。
 
あの、、原文を読んでないから勝手な意見で申し訳ないけど
訳語のテイストが一定でなくて、だいぶん途中で読むリズムが
狂わされました。各役の発する言葉の雰囲気も所どころ歪むし。
もしかしたら、原文がそうなのかもしれない?けど、
そのまま訳せ、という指令でもあったのかな?と思わずにはいられないほど。
たとえば日本語がオリジナルの小説として、どこぞの賞に応募したら
ぼこぼこに叩かれるんじゃないかと思いました。
 
小説の翻訳は、画面がフォローしてくれないぶん、
言葉が全てだから、厳しいとはおもいますが、ここは一つ、
翻訳の仕事以上の、小説として違和感の無い、
完成度の高い本であって欲しかった、というのが感想です。
 
映像翻訳の勉強をしている身なので、自戒の念も込めて
この自分の意見を、将来の自分に残します。
 
よく覚えておけよ、自分。

ゴーストライター (講談社文庫)

ゴーストライター (講談社文庫)

古書の来歴

こちらの本が第2回翻訳ミステリー大賞をとったのは去年で、この文庫本 上・下巻が書店で平積みされていたので、気になって読んでみました。

物語はオーストラリア人の古書鑑定家がサラエボに降り立つところから始まる。鑑定する書は、砲撃の最中、イスラム教徒の学芸員が命がけで守ったというユダヤ教の書サラエボ・ハガダー。

正直に申せば、この時点で既に世界史や信仰に関する知識に乏しい残念な我が脳は、ぷすぷすと音を立てて煙をあげていたのですが、どうにもこうにも、続きが読みたくなってしまうトラップがあちこちに仕掛けてあって、脳みそ煮立てながらも読み終えてしまいました。

ネットに多数あげられている書評を読みながら、ああそういう歴史的背景があってこうなってそれなのか、というような一人補習授業を行っている次第です。

世界史、勉強しなくては。。

古書の来歴

古書の来歴

ちなみに「焚書(ふんしょ)」という言葉を、この本で学びました。